観る将さんは語りたい

すっかり観る将になってしまった、元指す将の将棋観戦記録です

才能とは何か?自己認識とトレーニングの重要性

才能について

自分で言うのもなんだが、僕は割りと優秀な方だ。 ある程度の事は、トレーニングする事で改善させて、伸ばすことが出来る。 自分がどこで躓いているのか、どうやったらそれを克服できるのかというのを自分で良く分かっている方であり、独学で何もかもしのげてしまうという能力がある。 言うなれば、自分自身を知る、という事に関しては非常に才能がある方なのだろう。

僕自身が常日頃感じてる事なのだが、才能と呼ばれる物には色々な形があり、それを端的に評価することは非常に難しい。 現在は才能が無いように見える人でも、方向を少し変えてやるだけで才能が花開くという時がある。 要するに、才能が無い人間は一人もいないというのが、僕の持論だ。

天才について

そんな中で、その才能が飛び抜けている人たちがいる。将棋というゲームにおいては分かりやすい指標があり、天才を認識しやすい。大山、中原、谷川、羽生、渡辺明藤井聡太と時代を築いてきた棋士は皆、才能が飛び抜けている事を認識しやすい。

そういう人たちがいわゆる、天才と呼ばれる人たちである。 天才は努力をしないで才能があるように見せかけているが、実際はきちんと努力している。しかし、彼らにとって努力は努力ではない。冒頭で書いたように、自分自身を知っているからだろう。 自分の弱点や克服すべき点を認識出来る能力、自分の強みや伸ばすべき点を認識出来る能力、それらを適切にトレーニングし、伸ばしていく能力。これらを高水準で行える人たちを、我々凡人は「天才」と呼んでいる。

しかしながら、天才と呼ばれるその人たちの目線に立つと、彼らにとっては普通にできる事柄であり、自分たちは天才なのかどうか、あまり認識できていない傾向があると思う。 他人よりちょっとだけ出来るレベルぐらいの認識なのかもしれない。

僕は、僕自身に関してそういう認識を持っていて、色々とこなしている。 他人から見ると、僕は天才に見える時があるかもしれない。 しかしながら、それは天才たちの視点に立ったことがない幸せな人々たちの視線であり、僕にとっては時にそれが羨ましく感じる。

そこそここなせる人間からすると、他の人たちは努力不足に見えるし、天才たちは努力している人に見える。 自分の能力も鍛えて行けば無限に伸びると錯覚すらしている。 実際の所、伸びしろの限界は人それぞれであり、加齢に伴い伸びるどころか退化すらしていく。 それらを実感する時に、自分の普通さ加減に悲しみを感じる。

コンプレックスを乗り越えるために

こういう天才コンプレックスを抱えている人はそれなりに存在していると思う。 努力し続けられる天才を横目で見ている人、努力してもその領域にすら届かない人、見てる次元がそもそも違う人、見えない人。 これだけ多様性のある時代だからこそ、人間は様々な感情を抱くし、劣等感や優劣感を感じたり、感じなかったりする。

こういうコンプレックスを乗り越えるためには、自分で自分を認める必要がある。 等身大の自分を見つめるというのは、とても難しいことだが、それをしなければ進めない領域がある。

僕自身、将棋の終盤がとても苦手である。 とはいえ、3手詰めぐらいなら、1秒で解く自信はある。 将棋をかじった人ならば、5秒、初心者なら3分前後、トップアマやプロなら0秒。 トータルで見てみると、自分の現在地がどれだけ上にいるのかが分かる。 後は、1秒を0.5秒に、そして最後は0秒に。そういう思考回路を組み立てるトレーニングをし続ける必要がある。 これに関しては、詰将棋を地道に解いていくしかないと思う。 量を解けば、パターンを覚えるようになり、最終的に様々な形で詰み形が見えるようになってくる。 その領域に達したら、僕もようやく天才コンプレックスを克服出来るかもしれない。 最も、その領域に到達すると、また更に先が見えてしまい、ますますコンプレックスを深める可能性が高そうだ。